アライ=ヒロユキ ライター・アーカイブ
【ほかのホームページ上で見れる寄稿文】
・オルタナ 中之条ビエンナーレ、ミュージシャン・サカキ・マンゴー、
東日本大震災復興支援プロジェクト展、「ここに、建築は、可能か」展、
炭坑絵師 山本作兵衛展、高千穂・椎葉・米良の神楽展、
福島サウンドスケープ
・週刊金曜日「萌えアートを斬る!」
・東洋経済日報「コリアン・ディアスポラ展」
・千年紀文学「現代美術における、記憶の表現」
・CUT IN 56号「ゼロ次元以降のアクションアート」(Cut Inの資料ページ)
以下、商業誌に発表されていない原稿を紹介します。
とある出版企画で、「新しい歴史教科書をつくる会」の『国民の歴史』へのアンチテーゼとして、寄稿したエッセイです。この企画は頓挫してしまったので、公開します。
いわゆる反体制志向のものではなく、国家あるいは日本帝国に収斂されない、公の可能性を大衆思想などから見出そうという観点から書きました。
・旧体制(アンシャン・レジーム)が育んだ公の政治への展望〜勝海舟
・大衆の抵抗の歌・演歌の栄光と凋落
・存在の空虚な日本画〜フェノロサ・岡倉天心・横山大観が作り上げた国民芸術
旧体制(アンシャン・レジーム)が育んだ公の政治への展望
〜勝海舟
「明治維新」以降特定の支配階級による政治の独占が行われ、今なお日本は長州藩の子孫が支配している。その現状を肯定するために明治の近代化や対外侵略は
必然であったと歴史家は説明してきた。だが、近代日本の歩みから距離を置いて歴史を眺めたとき、まったく別の日本を志向し時代を駆け抜けたひとりの人物の
姿が見えてくる。それは勝海舟である。
勝は旗本とは名ばかりの貧乏御家人の家に生まれた。身分の低いものが出世する手段は古今を問わずただひとつ、学問である。勝もこの例に漏れず、蘭学を学ぶことで立身出世の糸口をつかみ取っていく。
ペリー来航による「開国」以来、幕府は欧米の学問と技術に学ぶ近代化路線を取っていたが、その政治路線は2つの方向で揺れていた。1つが後に将軍となる
徳川慶喜や幕臣・小栗忠順(ただのり)らの幕府に権限を集中させて近代化を推し進めようとする「徳川絶対主義」、そして越前藩藩主・松平春嶽や幕臣・大久
保忠寛らによる、朝廷や諸藩らが幕府ともども政局運営に携わる「公共の政」である。春嶽の背後には横井小楠がいる。勝は思想家・小楠のいわば同志として、
封建社会のなかで「公共の政」を作り上げるべく奔走した行動家だった。勝の目指した政治とは、徳川幕府のような一部の勢力が政治を私することなく、さまざ
まな勢力が共に日本と社会のあり方を考え、運営していくあり方。今風に言えば、限定的な共和主義である。彼はこれをアメリカのワシントンの政治姿勢に喩え
ている。
勝の大きな業績に、日本初の近代海軍の母胎となる神戸海軍操練所の開設と運営がある。彼が目指したものは「一代共有の海局」。近代海軍創設にあたり、幕
府の枠にこだわらず、有志有能の人材を広く集め、諸藩協業により封建体制を打ち壊す契機とする。さらにヨーロッパ列強の対抗するため、日本だけでなく朝
鮮、中国へと呼びかけ、同盟体制を構築する壮大な発想を持っていた。
この神戸海軍操練所は新しい時代を作る人材の結節点となった。その代表例に、坂本龍馬がいる。坂本は勝の薫陶を得て、初めてその才能を開花させたのだ。
この時期勝は薩摩藩の西郷隆盛と出会っているが、勝は幕府が古い価値観や制度にいかに縛られているかを正直にうち明け、今後の日本のために広く才子を集め
た「公議会」を起こすべきだと語った。西郷はこれを「共和主義」が必要であると受け取めたのだった。この時の心境を、後に勝は「国家の問題のためには、徳
川300年幕府のことなど省みなかった」と述懐している。神戸海軍操練所は、結局幕府の「抵抗勢力」の反対に遭い、閉鎖される。だがこの後、坂本は新しい
歴史の担い手を幕府の外に求め、奔走する。彼の尽力もあって、西郷隆盛は仇敵・長州との連合を模索し始める。勝の蒔いた種は確実に実ったのだ。
この後、幕府は薩長同盟に劣勢を強いられ、鳥羽・伏見の戦いを経て、江戸城は西郷率いる維新政府軍に詰め寄られる。ここで勝は幕府の最高指導者として和
平交渉の場で西郷に再会する。このときの維新政府の幕府への態度は公明正大とは言えなかった。それは、当初から目的を仇敵である幕府の殲滅に置いていたか
らだ。それに対し、勝は果敢なまでに政略と戦略を駆使し、徳川氏の存続に成功する。勝は幕府の私の政治の変革を志向したが、それは維新政府つまり薩長同盟
の専制体制に対しても公明正大であれ、私の政治を行うなと問うたのだった。これが有名な勝と西郷の会見による江戸城無血開城の顛末である。
幕府の消滅後、勝は維新政府の中で高官の地位に就く。表向き薩摩藩と長州藩のみの派閥で政治を行うわけには行かないので、その頭数の調整と近代海軍創設の功を買われてである。これは名誉職の色彩も濃く、ここでの業績で特に目立つものはない。
薩長のクーデターによる日本の政治の私物化は、やがて日本そのものの私物化へ、さらには軍事力を背景とした東アジア全体の私物化へと向かう。勝は、そん
な維新政府の閣僚の中にあって、公然と批判を述べてはばかるところがなかった。単なる不平屋ではない。幕末にあって公の政治と大義を主張した理念がそのま
ま貫かれているのである。彼の批判で代表的なものは、侵略政策についてである。台湾出兵に閣議上異を唱え、日清戦争では「大義のない戦争」と歌に詠み、公
然と触れ回った。清の将軍・丁汝昌が戦争の責任を取って自決したときは、新聞に自分の弔意を発表しさえした。
維新政府の対外政策を批判する理由は、勝が「一大共有の海局」で唱えた東アジア三国同盟論をずっと抱いていためだ。後年の述懐で彼は「朝鮮は昔お師匠様」と述べているが、長い日本の歴史の中で隣国の朝鮮や中国に受けた恩恵は計り知れないとも思っていた。
勝の晩年に足尾鉱山鉱毒事件が起こる。このときの政府の無処置にも、勝は容赦のない批判を浴びせた。告発者の田中正造との交友もあった彼はこう語っている。今の政府に比べて幕府時代は野蛮だったというが、鉱毒を垂れ流す文明なら野蛮の方がまだましだと。
勝と犬猿の仲と言うべき福沢諭吉は国家を、文明、半開、野蛮の3つに分け、その序列の中で弱肉強食を正当化していた。それが日本が富国強兵政策の道を歩
み、近代化する上で最善の策であると。故に福沢は日本の侵略政策を肯定し、足尾の公害では企業・政府側の援護に立った。勝の価値観はその対極に位置する。
勝は徳川氏の専制政治下にあって公の政治と社会の大義の必要性を痛感し、そうした社会を作るために行動した。明治維新後は、国家を私物化した大義なき政
治を容赦なく批判した。彼の中にあったのは「近代はすべてよい」という発想を相対化した、よりよい社会と公の政治への展望であった。
大衆の抵抗の歌・演歌の栄光と凋落
「貴女に紳士のいでたちでうわべの飾りはよかれども 政治の思想が欠乏だ天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ オッペケペッポーペッポーポー」(オッペケペー節、川上音二郎)
歌は世相を反映するというが、演歌ほど日本近代を鏡のように映しだした大衆表現はないだろう。そもそも演歌とは自由民権運動の壮士によってはじめられた
言論活動の一種で、政府による政治集会への規制と監視が厳しくなったことから、その対抗手段として演説ではなく歌によって政治的主張を訴えたもの。堅苦し
い政治演説よりわかりやすい小唄や講談の形でより大衆にアピールした側面もある。別名壮士節ともいう。
その第1号が『ダイナマイト節』(1883年)(民権論者の 涙の雨で みがき上げたる大和肝 コクリミンプクゾウシンシテミンリョクキュウヨウセ〔国
利民福増進して民力休養せ〕もしも成らなきゃ ダイナマイトどん)である。演歌は基本的に街頭に壮士が立って大声で歌い上げるもので、その後で歌詞を印刷
したリーフレットを販売した。形式は五七調だが、音楽的な技巧はあまり省みられず、無骨一辺倒のものであったようだ。
ほかに、植木枝盛の『民権数え歌』(1878年)(一ツトセー 人の上には人ぞなき 権利にかわりがないからは コノ人じゃもの……)も知られている。
似たものとして、川上音二郎のオッペケペー節(1889年)があるが、これは彼が創作した壮士芝居での歌であるものの広い意味で演歌と言えるだろう。
こうした演歌は東京の青年倶楽部が担い手となり、大衆の喝采と官憲の敵視を招いた。ここには田中正造などの反骨の士が多く出入りしたという。ただ自由民
権運動がたどった軌跡と同じように、政府への批判と共に日清、日露戦争時には対外膨張主義を当時の大衆の気分を代弁するかのように鼓吹した。
演歌を表現の域まで高めたのは添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)である。彼は政治(党派)的なご都合主義に明け暮れ、表現としての錬度を高めない青年倶楽
部の同輩とは一線を画し、演歌表現の洗練度を高めるため腐心した。また堺利彦との出会いもあって特定の党派にとらわれない社会的な視点を持った作品に取り
組み、後に日本社会党に入党、官憲に執拗に狙われるようになる。
彼の代表作『ノンキ節』(1918年)はこんな内容である。「膨張する膨張する国力が膨張する 資本家の横暴が膨張する おれの嬶ァのお腹が膨張する
いよいよ貧乏が膨張する ア、ノンキ」。しかし上記の一部例外を除いて、演歌は大衆の情愛をテーマにした歌謡へと徐々に変容し、その生命力を失い、
1920年代頃には流しと呼ばれる存在にまで零落する。なお後年フォークの高田渡やソウル・フラワー・モノノケ・サミットが添田の曲を取り上げている。
演歌と互いに影響を与え合い発展した大衆芸術に浪曲がある。これは江戸時代より伝わる瞽女やチョボクレ、阿呆陀羅経といった大衆の哀感表現や語り、リズ
ミカルな音楽といったものを受け継いで生まれた。桃中軒雲右衛門が初期の代表的な浪曲師として知られている。彼は『赤穂義士伝』を代表的な演目としたが、
それは明治になって捏造された「武士道」をバックボーンにしたものだった。浪曲のターゲット層はいわゆる下層労働者階級であり、結果的に天皇制下における
富国強兵と対外侵略のためのイデオロギー的囲い込みに寄与した。
桃中軒雲右衛門にとっての転機は、革命活動に頓挫した宮崎滔天の転職入門である。浪曲師・雲中軒牛右衛門となった宮崎は彼を玄洋社の頭山満に紹介、桃中
軒雲右衛門は頭山の庇護を受けて、一時退潮だった人気を回復し、絶大な大衆的支持を受けた。宮崎は後に彼と袂を分かつが、それには宮崎が中国革命史を浪曲
で演じていたといった傾向の違いもあったかもしれない。全般的に浪曲は添田唖蝉坊のような恵まれない大衆の社会状況に目を向ける「社会主義的」な傾向を忌
避した。そして後年から見ると、演歌と浪曲という2つの近代初期の大衆表現は、一方は没落し、もう片方は軍国主義化に向かう中で隆盛を誇る。そして戦後さ
らに転機が訪れることになる。
日本帝国の敗戦後、浪曲はGHQによってその占領期間中、軍国主義を体現するものとして上演を中止される。そしてその後浪曲は一時復活するものの、徐々に衰退へと向かう。
一方演歌は逆に戦後隆盛を極めることとなる。だがそれはかつての演歌とはまったく異なるものだった。日本の近代ポップス(歌謡曲)は伝統音楽とともに
ジャズなどの欧米のポップスの影響も受けていた。そうした中で1950年代後半になり望郷歌謡と呼ばれるジャンルが登場する。これは春日八郎の『別れの一
本杉』、三橋美智也の『哀愁列車』、三波春夫の『チャンチキおけさ』などがその代表例で、その人気の背景には崩壊しつつあった農村や郷里への思いがある。
これはちょうど高度成長期にあたり、地方出身者の望郷の念を癒し、列島改造という自然破壊を成し遂げ、日本人を企業戦士化するためのイデオロギー装置だっ
たと言えるだろう。
こうした歌謡曲は演歌調と呼ばれ、それ以降演歌というジャンルが誕生し、定着する。演歌歌手の中には浪曲出身が多いことも見逃せない点である。また洋楽
志向の歌手も成りゆき上演歌のジャンルで活躍することもあった。最初にブギを歌ってデビューした美空ひばりがその例である。敗戦直後時点での歌謡曲の2大
作曲家は洋楽志向の服部良一と“日本”志向の古賀政男だが、結果として古賀の方に勢力争いの軍配があがったことも演歌の隆盛を決定づけた理由のひとつと言
えるかもしれない。
これ以降、演歌は大衆の意識をガス抜きし、体制化する役割を果たしていき、当初のルーツの持っていた政治的抵抗の要素をまったく欠落させている。むしろ
日本のフォークやロックミュージシャンが、添田唖蝉坊のような社会性を持った歌をつくり出していく。それは、アメリカにおいて大衆の社会意識を反映した表
現のフォークソングを歌ったウディ・ガスリーやピート・シーガー、さらにそれを受け継ぎロックに昇華したボブ・ディランらの影響によるものである。
存在の空虚な日本画
〜フェノロサ・岡倉天心・横山大観が作り上げた国民芸術
日本を代表する芸術に日本画があるとはよく言われるところ。だがこの名称は明治になって生まれた。いや、それだけでなく、存在そのものが明治になって生ま
れたのだ。そもそもこれは、アーネスト・フェノロサが1882年に講演中用いた「Japanese
Painting」を翻訳語から来ている。彼はアメリカから来た哲学者で、「日本の美」に深く魅せられていた人物。ヨーロッパ絵画とは違う美を見出し「日
本画」という言葉を用いたのだった。
江戸時代には日本の絵画は大きく分けて4つあった。狩野派と尾形光琳の琳派などをまとめたやまと絵、中国の水墨画の伝統を受け継ぐ文人画、写生画、浮世
絵である。写生画のうち、ヨーロッパの影響を受けたものを特に蘭画という。だが江戸時代の絵画は日本画と呼ばないし、また明治に描かれた浮世絵を日本画と
呼ぶこともない。明治以降の、フェノロサに始まる「日本画ムーブメント」のトレンドに乗ったもののみ日本画と呼ぶのだ。
たとえば、フェノロサは絵師・狩野芳崖の画才をことのほか愛した。芳崖の一代傑作は『秘母観音図』だが、これはフェノロサや後で述べる岡倉天心(覚三)
に刺激され生まれた。イタリア・ルネサンスの画家・ジョルジョーネの『祭壇のマドンナ』を参照しつつ、伝統的な技法に加え、フェノロサがフランスから取り
寄せた顔料(絵具)を新たに用い、完成した。伝統文化の再発見と言うよりは、「日本の新しい芸術はこれだ!」という意図の方が強いだろう。
一般に日本画とは岩絵具などの伝統的な素材を用いて描く絵画を指す。しかし、岩絵具と油絵具を併用しても、日本画と呼ばれる場合もあるし、そうでない場
合もある。つまり「これが日本画だ!」と自己主張するか否かが分かれ目となる。では、日本画の定義とは何だろうか?
フェノロサの盟友として共に日本画勃興に尽力した人物に天心がいる。彼は元々政治学志望で東京大学(のち1886年帝国大学に改称)の卒業論文に「国家
論」を書いたが、奥さんの癇癪で焼却されてしまい、仕方なく即席で「美術論」を書き上げて卒業したという。そんな彼の考える美術は国家を前提にしたもの
だ。美術は国の花であり、美術に力を入れることは国家の繁栄につながる。また新国家日本を豊かにするため輸出産業として美術に国際競争力を持たせようとい
うものだ。天心が特に力を込めて力説したのが歴史画。国民国家としての自覚を促し、愛国心を持たせる。その手段として日本美術(日本画)があったのだ。
これは彼だけの考えでなく、日本画、洋画を問わず、多くの画家が共鳴し、歴史画を描いている。この時の歴史画とは、明治政府がいただく天皇家を中心にし
た歴史観に忠実なもので、偉大とされた歴代天皇とその忠臣たちが描かれている。もっとも、天心自体はそこまであからさまではなく、近代国家の一員としての
自覚の手段ぐらいにしか考えていなかった。
フェノロサ、芳崖、天心らの尽力により、図画取調掛を経て、1887年に東京美術学校(現代の東京藝術大学)が誕生する。その際文部大臣・森有礼は欧米
教育を重視していたが、彼らは日本画教育を認めるよう強引に説き伏せた経緯がある。天心はそこの幹事に収まり、後には校長になり、自らが目指す日本画育成
に乗り出す。
当時芳崖など江戸時代からの絵師は既に長老であり、幕末の混乱や近代化に伴う日本の絵画への軽視から、後続世代はほとんど育っていなかった。明治期の日
本画世代はまさに天心の元より誕生した。その筆頭格が横山大観である。彼は画才もさることながら、同輩もあきれるような徹底した追従で頭角を現す。天心は
「(菱田)春草は画家になれ、大観は政治家になれ」と言ったという。1898年に天心は東京美術学校をスキャンダルで追われる。事の真相はいまだに正確な
ところは不明瞭だが、不倫関係(そうとうの乱脈を尽くしている)などが原因にあげられている。
彼は日本美術院を結成、茨城県五浦に共同アトリエを作り、捲土重来(リベンジ)を計る。大観もそれに同行し、新しい表現に取り組む。それはヨーロッパの
最新流行である印象派の技法を取り入れた、ぼかしに重点を置いた朦朧体の発明。日本の絵画は伝統的に線描と構図に重点を置いていたので、塗りを重視した大
観の日本画は伝統と一線を画していた。その代表作は『屈原』で、中国の失脚した有名な憂国の詩人・屈原を描いた絵画だが、これは明らかに師匠・天心を表し
たもの。大観の人となりを伺わせるところだ。
画家の育成だけでなく、天心の重要な業績に著作がある。「アジアはひとつ」で有名な『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』など、多くは日本の伝統芸術
の素晴らしさを訴えたものだが、すべて自筆英語原稿。新国家日本の勃興を芸術の側から国際社会へアピールしたものだ。その筆は、日本の国家政策にも及び、
日露戦争はロシアの脅威から日本だけでなく朝鮮を守るためのものだったと訴えている。彼はインドの芸術家・タゴールとも交流し、インド解放運動にも共鳴し
ている。今に至るまで日本画家がよくアジアに題材を取るのも彼に倣ってのことだ。アジアの解放と日本の政策の正当性を結びつけて論じる天心のやり方は、ア
ジア主義に非常に近い。
天心と大観は文展や玉成会展などの役員を務め、美術の地位向上と啓蒙に力を尽くした。だが彼らは派閥政治を重視し、対立する画家を容赦なく攻撃、排除
し、その頂点を極めていった。近代の画家はおおむね東京美術学校の人脈を中心とした団体活動を経て出世するコースをたどっている。それには天心・大観の影
響が多大だ。今もほとんど改善されていない極端な学閥と派閥政治は海外の芸術では見られない。自民党の派閥政治にも似た特殊性だ。
大観は日本の風物(花鳥風月)を好んで描いた。だがそこにははっきりとした意図がある。たとえば彼は日本の象徴と言われる富士をよく描いている。「富士
は理想をもって描かなければならない。……いわば無窮(無限)の姿だからである」と戦後述懐しているが、それは当時「わが民族精神の浪漫的高揚を象徴」と
見るものに受け取られ、賛美されたのだった。彼が天皇に献上した『輝く大八州』は日本の自然をスケール感をもってまとめた絵巻だが、明治天皇の素晴らしき
言葉のごとく天地とともに果てしない治世に対する「千代田の皇居をあおぐ一億国民の感激」として描いたとの彼の長々とした文が添えられていた。
彼の絵画は日本の文化と精神的な柱を絵にして表現した。もともと日本画はナショナリズムを背景に生まれた表現で、芸術的根拠自体は極めて乏しい。大観は
その日本画のあり方を定めたのだった。多くの画家がそれに共鳴し、いまだに従っているのも、ほかに日本画を定義しようがないからだ。
彼は戦争中自らの絵画の売り上げを軍に献納し、戦闘機4機が購入された。また天皇家のみならず、ドイツやイタリア政府首脳にも絵を送るなど、その気配り
の才は内外に存分に発揮された。そして日本の敗戦後も、数々の非難にも関わらず、日本美術界の天皇として君臨したのだった。
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